映身展 2019 の映像作品、どれもとてもたのしく拝見しました。作品という形になるかどうかもわからないなかで、やると言いだし、人を集めて撮影し、仕上げもして、さらにはお客さんを集めて上映する場を作るという過程は、それだけでたいへんなものです。一度それを経験した人は、またできます。また作れば、前よりさらにおもしろい作品が生まれます。応援しています。

個別の作品について書くつもりでしたが、お伝えできることに共通点がいくつかありましたので、まず全体について書いてみます。

撮影のこと。
キャメラがそこに存在しなかったとしても、自身が魅了される時間や出来事を作ることをまず優先してみるといいです。これすごくいい、もう撮らなくてもいいかもと思えるような時間です。いまのこの時間を何らかの形で残してみたい、ああそういえばキャメラというものがあった、じゃあせっかくだから使ってみようと、最後に取り出す道具として扱ってみるといいです。キャメラは、そこになにかがあって初めて役割の生まれる道具です。
みなさんの作品を見ていると、そのなにかが定まる前から、キャメラを先に置いて考えているのがわかります。順番が逆になっています。みなさんの順番で進めると、キャメラのために奉仕する時間や出来事が写ることになっていきます。そのためのこういう人物の動線、ポジション、アクション……。
みなさんの作品に登場する人たちは、そこにキャメラがあることを知らないと思います。出演者としては知っています。でも、その世界の住人としては知らないはずです。だから、キャメラのための動きを優先的に与えられると、ギクシャクします。その世界の住人としては、そのようにする必要がない動きですから。どうしていまその動きをしたんだろう、どうしてそこに座っているんだろう、どうしていま顔を上げたんだろう、なぜならそこにキャメラがあるから、という答えで説明できてしまう時間がいっぱい写っていました。そうなると、まるで無邪気な権力者みたいになってしまいます。一度、その権力のことを意識してみるといいです。その上で、ここでこういう時間が生まれれば、それが映画に、ミュージックビデオに、アート作品になるかもしれないと思えるなにかをつかまえていくといいです。その時間がきっといちばんたのしいです。それができたら、あとはどう撮ったとしても写ります。本当です。

脚本・構成のこと。
脚本ができあがれば、それをベースに映画や映像作品が生まれる、といったことはありません。映画と呼ばれるものが生まれるかもしれない、というきっかけのひとつが脚本です。修学旅行のしおりに近いかもしれません。そういう行事をぜんぶ欠席した人もいるかもしれないので、もし経験がない人がいたらごめんなさい。そういう人がいても伝わればと願いながら書いてみます。
いつかの修学旅行で、みなさんはたしかにしおりに書かれている通りにその数日をすごしたでしょう。でも、ぜんぶスムーズにその通りに進んだりはしなかったと思います。バスの集合時間に遅れて置いてきぼりにされたり、なにかきっと起きたと思います。でも臨機応変に対応して乗りきったはずです。で、すべてを終えて帰ってきて、ああ、どうやら修学旅行と呼ばれるものを自分は経験したぞと思うのです。でも本当は、名前もつけられないかもしれない、言葉にはできない時間がそこにはあったと思います。
これも、みなさんの作品に共通して感じたことですが、脚本に書かれてなかったことが目の前で起きたりしても、あまり気にせず元々の脚本の通りに撮影を進めているように見えました。
たとえば、意地でもしおりの通りに旅程を進めようとする先生がいたら、私はちょっと戸惑います。いまそういう時間じゃないけど、あそこにおいしそうな団子屋さんがあります、おなかすいてます、食べましょうよ先生、食べない方が不自然ですよ、といった空気に生徒たちがなっているときに、まあ修学旅行だし、たしかにおなかすいてるし、おいしそうだしいいですよ、なんなら内緒でご馳走しますよ、みたいな先生がいたらいいなと思います。いや、ここで団子を食べるなんて予定になかったことはしません、次に行きますという先生がいたらがっかりします。みなさんの作品は、どちらかというと、後者の先生が撮ったような作品になっています。その日そのとき、団子屋さんの存在に気づいても、その匂いをかいでも、それは元々のイメージにはなかったものだから、なかったことにしますというあり方です。ですから、ここでもあまりよくない形での権力が生まれています。まさか自分がそういった権力を持つ側に立つ可能性があるなんて、思ったことがないかもしれません。みなさんは、教員になって1年か2年目くらいに、修学旅行の旅程を任された先生みたいなものですから、できのいいしおりが用意できるはずがないです。単純に経験が少ないですから。だからこそなおさら、脚本を頼りにしつつも、臨機応変に対応していった方がいいのです。不十分かもしれない脚本を、現場で仲間たちと一緒に、順次よいものにしていくといいです。

演出のこと。
これは撮影の話とも絡んでくるのですが、どの作品もキャメラが中心の演出になっているので、なにかを言うのがむずかしいです。もっというと、さらにそのキャメラが決めたフレームを中心にしているので、そのフレームに役立つための演出になってしまっているのです。これは判断がむずかしいです。フレームは、たまたまそこで切られているだけで、そこにフレームがあってもなくても、みなさんが描こうとした世界は存在しています。そのことをちょっと忘れがちみたいです。
たとえば教室のシーンで、主要な登場人物以外の学生役のエキストラの人を、フレームに合わせて配置しています。その位置に人がいればいいと思ったからか、座ってもらっただけで終えてしまっています。でもその奥にいる学生の人は、フレームと関係なく生きている人です。
すごく大きな声で、恋人ができたことを主人公に伝える人がいました。奥にいる人は無反応で、カットが切り替わって逆側にいた人も写りますが、やっぱり無反応でした。いくら他人に無関心な都会の学生という設定だったとしても、反射的に体は動くと思います。だって声がすごく大きいですもの。なのに、かすかな視線の動きすらなかったのです。反応しない方が変で、だから、そこになにかあるのかなと思ってしまいます。答えは、これが映画の撮影だからです、という時間が写っていました。
また別の作品で、主人公の顔の前に急にたくさんの手が現れるカットがありました。見てすぐに、フレーム内に写っている手だけが芝居をしていることがわかります。幻でしょうけれど、あの手の主は一体だれでしょうか。主人公にとってはどんな存在でしょうか。そのことを、あの手だけで出演した人たちが、ちゃんと考え、写る写らないに拘らず、全身で芝居をしていたら、きっとちがった映像になっていたと思います。あのカットに写っていたのは、手を担当した人たちの気づかいです。手がいっぱいに見えるように、あまり隙間ができないように、位置のバランスをお互いに測りながら動かしていく。そういう気を使っている人たちの手が写っていました。目指していたのはそれではなかったと思います。演出とはなにかといったら、そういうところです。
脚本に書いてある場を実際に作ってみたら、思っていた以上に声がすごく大きい。そうか大きいか。あれ、奥の人、ぴくりとも動かないけれど、それはどうだろうか。事前のイメージでは、教室が静まっているなか、ひとりで浮かれて騒いでいる子がいる場面だったけれど、これはやっぱりちょっとくらいは見るな、なんならくすくす笑うかもしれないな、という判断をするのが演出です。リアルだとどうかの話ではありません。みなさんが描こうとしたその世界を生きる人たちならどうだろう、と考えつづけてみるといいです。まずはフレームに惑わされないように、キャメラの存在はいったん忘れて、脚本に書かれた時間や出来事を作るのに専念するといいです。エキストラの人が座る位置よりも、まず、その人たちがその場所でどう存在しているかを考えるのが先です。仮に決めた場所に座ってもらって、どうしてもあとで移動が必要になったら、そのときに座り位置を変えればいいだけの話です。まずはその世界の住人の人たちが、ちゃんと生きられるような時間を作ることを優先してみてください。
みなさんに共通しているのは、フレームを切ることで安心してしまっていることです。フレームのなかに写るものや人たちのことも大事にしているかと思って見ていたら、逆なんです。けっこう、見てないです。
またたとえ話で恐縮ですが、学校の教室と呼ばれる場所に机が並んでいて、始業のチャイムが鳴ると生徒たちがきちんと座って、自分が教壇の上で話し始めればそれは授業というものになる、と油断している先生と同じです。生徒たちの様子、ちゃんと見ていますか、ということです。学校という場所が生む、教室というフレームに安心しているのと同じ状態になってしまいます。
ここまでで伝わるかもしれませんが、私も書いていて気づきましたが、私が言っていることはどれも、映画や映像作品が生まれるときに避けては通れない、権力の話につながります。権力を無自覚に持っていたら、なんとかそのことに気づいて、なによりその世界の人たちが日々どのようにそこにいるのかに、目を凝らしてみてください。もっと言えば、その場所、そこにあるもの、そこにある草木、ぜんぶです。そこからはじまります。

最後に、それぞれの作品について書きます。

“Tha Hall of Nirvana” Hirotaka the Human
Hirotaka さんの絵、とてもすてきです。だから、もっと大事にしてほしいと思いました。途中に登場するそれぞれの絵が、その世界のどこに置かれたものなのかを見たかったです。もしかしたら、使用しているのはキャプチャーで取り込んだ画像でしょうか。キャプチャーは、被写体との距離がゼロで写された画像です。他の場面で、Hirotaka さんはいろんな人物や場所を、ある距離を持って写しています。その距離こそが、Hirotaka さんの映像を生み出しています。だからもしかしたら、絵にも、その距離をもって接したらよかったかもしれません。もし紙で存在するなら、それぞれの絵があるべき場所、と Hirotaka さんが思えるところに置いて、実際に撮影してみるといいです。Hirotaka さんならどこに置くでしょうか。それらの絵に、人物たちに対してと同じようにキャメラを向けていたら、同じ絵でもきっとちがった存在の仕方をしたと思います。もしいまと同じサイズで絵を写したとしても、Hirotaka さんがそれらをどこに置いて、どういう光を当てながらキャメラを通して見つめたかが、かならず写り込んできます。そうすれば、絵以外に映し出されていく時間とのつながりも、もっと見えたかもしれません。あと、実写の部分ですが、仕上げ用のソフトで簡単に処理をしたような映像がつづきますが、簡単に処理ができてしまった映像には、その簡単さの方が写ってしまいます。アニメーションなどで1コマ1コマ描き込んでいった映像とは差が出てきます。Hirotaka さんの世界を形にできる手段がもっとある気がしました。そう思ったのは、あれらの絵を見たからです。それを突きつめる作業はきっとたのしいです。

「99」サンドメノハル
映像のいいところは、言葉から自由でいられるところです。せっかくそういう表現を選んでいるのに、この作品は、言葉としての意味を補完する役割として映像を使っているように見えます。それだけではありませんが、ちょっとそれがつよいので、もったいないです。一歩間違えると、カラオケ映像と同じになってしまいます。
出演者の方はとてもいい目をされていますし、魅力を感じます。その人がバットを振り慣れてないなら、その慣れてない人が物を壊していくことのおもしろさをもっと見ていくといいです。それが演出です。この作品は、そのような人を主人公にしていることに、目をつむっています。元々頭のなかでイメージしていたアクションを、滞りなくやってもらうことを選んでいます。もったいないです。現場で気づいたはずです。想像していた以上に、バットが似合わないなと。だとしたら、その似合わなさこそが、あの主人公の魅力なんです。叩いているのに全然 iPhone がこわれないし、そもそもバットが命中しない、でもこの人は叩きつづける、命中するかどうかお構いなしに叩きつづける、みたいにしていくとか。もはや iPhone の液晶が割れるか割れないかなどということは、主人公にとってはどうでもいいことだったのだ! と気づける方が、きっとたのしいですし、作品はおもしろくなっていくと思います。現場が始まったら、頭のなかで構築したイメージはいつでも手放せるようにしておくといいです。

「愛のかたち」中島ゆい
梓が、終盤でとつぜんダメでいやな人になっていきますが、ついていけませんでした。脚本上ではそうなっていたかもしれませんが、どうも、そのようには写ってなかったです。映画のなかで登場人物が、とつぜん思ってもなかった行動に出たり、発言をしたりすることはあります。でも、今回の作品では、梓の変化はなかなか受けとめられませんでした。どうしてかを考えてみました。梓役の方は、とてもやさしい人柄がにじんでしまうのかもしれません。普段そんなひどいことはしないし、言わないだろうな、ということが隠しきれてないです。だからミスキャストです。問題の解決のためには、梓役の方に合った脚本をもう一度書き直すか、出演者を変えるかです。もし、梓役の方と映画を一緒に作ることが大事だったら、前者を選んでみるといいです。自分が元々作ろうと思ったお話をいったん手放して、その方の存在を優先させるということです。映画を作るのには、そういったいろんな選択があります。中島さんにとって、なにが大事かを常に見極める作業が必要になります。
梓と花が仲良くなりはじめてからの一連の場面、好きでした。あれらの時間は、出演のおふたりがのびのびと演じられたのだろうと思います。
もったいないところがありました。梓の部屋の、ベランダ側のレースカーテンの丈が、窓のサイズに比べて足りなくて、それがすごくよかったです。きれいにかわいく部屋のなかをつくって暮らしているのに、カーテンの丈をまちがえてしまったことには頓着しない。梓はきっとつめが甘いんです。あそこに梓の人柄が写っていました。フレームのなかのものを大事にしてくださいと言ったのは、こういうところでもあります。かなりいい状態で、カーテンの丈の足りなさは写っていましたから、せっかくだから、使うといいです。花が梓に、どういう人が好きかを伝えるとき、「梓のことだよ」ではなくて、たとえば「カーテンの丈をまちがっても気にしない人」というセリフだったらもっとよかったかもしれません。それで、梓にも伝わりますし、この映画を見ている人にも伝わります。梓もぜったいに自覚しているはずです。カーテンの丈が合ってないのに、まあいいやで済ませてしまっていたことを。だからそれを言われて、一瞬遅れて気づきます。あれ、それ私のことだって。その一瞬遅れる時間に、「梓のことだよ」というセリフだったとき以上に、梓の戸惑いが写ったかもしれません。

“REAL/UNREAL”中川莉沙
自分が撮っている映像にはとくになにも写っていない、ということを試しに腹をくくって認めてみるといいです。音もそうです。それはそれでしかない、という地点に一度身を置いてみるといいです。なにかがそこにあるふりをしないといいです。そこにはなにもないのですから。
堂々と、なにもないことを積み重ねてみてください。なにかいい作品が生まれそうな予感がします。ただ、いまの状態だと、リアルとアンリアルという対比に、この映像作品の存在理由を見つけようとしているように見えます。私たちに存在理由がないように、映像作品にもありません。では私たちとはなんでしょうか。そのことと同じです。落とし所を見つけずに、中川さんが見つめていたい時間を遠慮なく写しとった作品を見てみたいです。テーマなんて気にせずに、思う存分作ってみてください。テーマは、いつか自分の作品のためにお金を集める必要が出てきたときに、なにかいい言葉を見つければいいです。いまの中川さんは、きっとそれよりも、自分自身が惹かれていく時間を写していくことに専念するといいです。中川さん自身が設定したテーマが、中川さんの持っている才能の邪魔をしている気がします。テーマから自由になるだけで、きっともっと魅力のある作品を作れると思います。

「パレット」加計柊多
加計さんは、ぜんぶの役とぜんぶの場面を、一度自分でやってみるといいです。もうひとり、各場面の相手役を演じてくれる人を見つけて、お願いして、交代してすべての役をやってみてください。実際に撮影をしようと決めた場所に行って、ぜんぶです。そうすることからはじめてみるといいです。きっとたのしいです。自分がそれらの役をちゃんと生きられたら、撮影に入るといいです。生きられてないと感じたら、もう一度脚本に戻って書いてみてください。登場人物たちに、もっと生きてほしいです。
レナのアイデアはよかったです。幻であることが、さりげなく、すぐわかるように演出されていました。みんな厚着をしている川べりで、ひとりだけ薄着ですから。ああ、人じゃないなと。ただ、ここでもひとつ気になりました。智志はあの場所で肌寒さを感じているはずです。川は風がありますし、話しかけた人が薄着だったら心配するでしょう。さむくないですか? と聞いたり、上着を貸そうとすると思います。
レナが見せてくれた水彩画は描き上げられたばかりなのに、智志は簡単にキャンバスの表面を親指で触っています。まだ乾いてないはずですし、大事な絵だったら、なんとか表面を触らないような持ち方をすると思います。智志、レナの絵をすごく雑に扱うんです。自分の画材道具は大事にしてるのに! と思いました。最後にレナから見せてもらった絵も、投げ出したまま放って逃げます。あの人柄なら、焦って逃げようとしながらも、恐怖を感じてたとしても、それまでのレナとの時間があったのだから、視線だけでも、一瞬だけでも、投げ出してしまった絵のことを見る気がします。気にせずそのまま行っちゃうんだ!となりました。だから智志、ただすごく変な人に写っています。でも、すごく変な人として演出しているようには感じなかったので、それはやっぱり、加計さんが一度あの役を生きてみたらいいなと思うのでした。そうしたら、もしかしたら最後の場面は変わるかもしれません。
映画のはじまりで座っていた場所ではなく、レナが座って絵を描いていたのと同じ場所に自分も座って、前に広がる世界を見つめて、智志は絵を描き始めていたかもしれません。もしくは絵を描くことをやめるかもしれません。さらには、もう二度とあの川べりには行けなくなるかもしれません。少なくとも、出会う前に座っていた場所には座れなくなるでしょう。よかったら、ここに書いたことを頭の片隅に入れて、また作品を作ってみてください。

“Stare Free”水村杏奈
灰色の壁を背負っての姿、とてもよかったです。キャメラがもうすこし、水村さんのエネルギーに引っ張られずに、その姿を見つめていられたらもっとよかったです。水村さんがエネルギーを持っているのですから、キャメラはただそこにいればだいじょうぶです。
野外の公園での場面はもったいないです。やりたいかもしれないことに対して、制約が多すぎる気がしました。もっとダンサーもキャメラも自由でいられる場所があったはずです。場所探し、妥協しないといいです。遠くに年配の男性がいる世界でもいいのだったら問題ないですが、きっと、そういう世界じゃなかったはずです。だとしたら、たとえば、あの男性にどいてもらうのでもなく、あの男性が写り込まないように撮影するのでもなく、思う存分やれる場所を探してくるといいです。もしかしたらですが、ステージの下からの仰角の映像が多いですが、写ってほしくないものがフレームに入らなくなる角度だからそうした、ということありませんか。もしちがったらごめんなさい。もしそうだとしたら、もったいないです。あのダンサーの方をベストと思える位置から、距離から撮ることを最優先にするといいです。それができる場所を見つけるのがいちばん大事です。

“WAKE UP!!!”篠田衛
盗み撮った姿をとおるたちが真似して映画にしていく時間がとてもよかったです。ひきこまれました。登場人物たちすべての人柄がステレオタイプで、ワイドショーの再現ドラマに出てくる人たちのようでしたが、あの場面ではそれもなんだかよくわからなくなって、みんな生きていました。あの場面をたよりに、これからもつづけていってください。自分の手のひらの上で扱えるような人物は、この世界にも、きっと映画のなかにもいませんから、普段篠田さんが周りの人たちと接するときと同じような態度で、登場人物たちとも関わってみてください。作者コメントにあるように、あたたかい目で見ていました。見させられたといいますか。それも才能だと思います。全力で作ったとありますが、全力にはもっとさきがあると思います。場所選びとか、いろいろ雑です。とおるたちが一緒に映画作りをする場所、あの教室がベストには感じませんでした。やりやすさからあの教室を撮影場所として選んだということ、ありませんか。物作りで、唯一だれでもできて、確実に作品をよくする方法があります。それは丁寧に作ることです。篠田さんの丁寧、もっとあるはずですから、もっとがんばってください。

以上です。はじめる前は、批評としての文章を書くつもりでいましたが、実作に向けてのアドバイスのようなものになっていました。それを選んでいました。ご容赦ください。いつかまた、どうぞよろしくお願いします。

【講評者】

杉田協士(すぎた きょうし)

1977年、東京生まれ。映画監督。他に写真や小説も手がける。2011年、映画『ひとつの歌』が第24回東京国際映画祭に出品、2012年に劇場公開。第2作『ひかりの歌』が第30回東京国際映画祭に出品、第19回全州国際映画祭に招待され、2019年1月から劇場公開。歌人の枡野浩一氏との共著になる写真短歌集『歌 ロングロングショートソングロング』(雷鳥社)が2012年に出版。小説『河の恋人』、『ひとつの歌』がそれぞれ2014年、2015年の文芸誌「すばる」(集英社)に掲載。演劇との関わりもつよく、『金子の半生』(ハイバイ、2010年)、『浴槽船』(FUKAIPRODUCE羽衣、2012年)、『洪水』(2012年、指輪ホテル)などの映像作品がある。女子美術大学にて非常勤講師。