【講評】武藤大祐氏

Mar 5, 2019 | 1 minute read

岩城かのこ『囲(i)』

 白いレオタードを着た3人が舞台上手奥でフォーメーションを組み、1人は下手手前で正面向きに立ってオレンジ色に光る小さな箱を手でまさぐっている――。後はもう大体わかってしまうような、既視感に襲われたというのが正直なところだ。ところが手前のダンサーの、ちょうど箱を持った手のあたりだけが、大きな柱の影になったように薄暗い。よく見ると舞台全体に白黒の大きな格子が映像で投射されていて、その黒い縦の帯が、本来なら最も照明が当たるべき所にかかっているのだ。無視したいほど些細だが、引っかかるといえば引っかかる(後から思えばこの格子はタイトルの「囲」の字だったかも知れず、だとすると余計引っかかる)。既視感とそれを妨げるノイズ。これが以後も様々に変奏される作品であるように思われた。

 非人間性を醸し出そうとするこの種の演出であればまず常套句というべき、アタックの強い幾何学的な動作が当然のごとく現れる。しかしそれらはなぜか具象的で情動的ですらある身振りにしばしば侵食され、様式的な一貫性を崩されている。あるいは、明らかにデザインされたノイズ的な音響が止むと、静寂の中でまた何か物理音が聞こえてくるが、耳を凝らすとどうもそれは地上(会場は地下にあった)から微かに聞こえてくる街頭の雑音のようにも思われ、いくら集中してみても判別がつかない。こんな風に、複数の異質な次元にまたがる、決して単なる未整理ともいいがたい、危ういバランスのようなものがある。

 オレンジの箱を宙に舞わせるソロの動きに他の(箱を持たない)3人が同調する。しかし4本の腕のユニゾンによって並行線が示されるというより、箱を持ったソロのダンサーを3人それぞれが心理的に支持しているかのような印象を受ける。もちろん具体的なナラティヴが認められるからではなく、一人一人の動きの軌跡やペースにかなりの幅があり、身体が単なる幾何学には還元され切っていないからである。

 こうしてこのダンスは、無機質な機械の集合体に身をやつすという、近代舞踊の古典的パターン――マーサ・グレアム、オスカー・シュレンマー、石井漠からアルウィン・ニコライ、そして今日まで連綿と受け継がれる舞台表現の型――を踏まえているようでいながら、そこで求められる規範的な処理を随所で拒んでいるように見える。それは機械的なものに身をやつすことの不可能性を見せるとか、ましてやヒューマニズムに寄りかかるとかいったパフォーマンスではなく(あるいはそれ以前に)、構成された運動、構成された舞台空間というものの自律性へのごく漠然とした疑いの身振りとして受け取った。

【講評者】

武藤大祐

群馬県立女子大学文学部准教授(舞踊学・美学)、ダンス批評家、振付家。20世紀のアジアを軸とするダンスのグローバル・ヒストリー、および振付の理論を研究している。共著『Choreography and Corporeality』(2016年)、『バレエとダンスの歴史』(2012年)、論文「限界集落の芸能と現代アーティストの参加」(『群馬県立女子大学紀要』40号、2019年)、「舞踊の生態系に分け入る」(同39号、2018年)など。三陸国際芸術祭プログラム・ディレクター(海外芸能)。