ダンス部門 遠藤七海作品「Co‒」

 舞台の上に「人間の生きている身体が2体ある」というのは、実はかなり重大なことである。1人と2人では、舞台上に現れる身体の様子が全く異なる。なにも身体にわざわざ触れずとも、私たちの身体は勝手に相手の存在や動きを感じ取り、微細な反応を編み続けている。

 手紙を読み始める直前、いったん2人の身体が離れてから再度相手に触れようとしたとき、ダンサーの指先が一瞬のためらいを見せたのが印象的だった。この一瞬のためらいを、ピリっとするような身体の反応を、ぜひ注意深く観察してみてほしい。「ダンス」という特権の中では麻痺しがちな感覚だが、生身の他人の身体に触れるというのは通常、そう簡単にできることではない。触れる/触れられるということは、快・不快だけでなく、様々な感触・感覚・反応を身体中に引き起こす。それを事細かに見つめる。相手の身体の凸凹に乗り上げて自分の指先がわずかに反る、そのことに気がつき、味わうこと。「感覚の解像度を上げていく」というのはダンスの醍醐味の一つだと思う。自分の身体の反応を0.1秒、1mm、0.01秒、0.1mmの感度で観察し、それを制御したり妨害したり拡張したり、試行を繰り返しながら身体感覚の解像度を上げていくような実践は、どこまでも果てしがなく、そして楽しい。

 後半、スマホのシーンは少々安直に感じた。しかしスマホを見つめる身体の現れは確かに現代特有のものなので、折角ならホーム画面を見つめるだけでなく、実際にSNSのタイムラインを眺めたり投稿しながらコンタクトワークをやってみて欲しいとも思った。スマホを身体の一部として取り込んだ状態から生まれるダンスにも充分に可能性があると思うので、それを見てみたい。

演劇部門 浅野井瑞季・杉田亮作品「賽と河原」

 観客席・出演者の待機席をそれぞれ対面にし、此岸と彼岸のように設えた発想は面白い。賽の河原といえばやはり三途の川、死者と生者、境目…といったワードが思い浮かぶが、本作中では「家・バイト先・大学・通勤電車・小さな失恋」など、日常性が強調されるシーンが展開された。かといって日常が完全な日常に見えるほど自然な演技ではなく、そのように「演じられた」日常と、SEでも用いられたサイコロが示すような「分岐」「運の分かれ目」などとの接点は読み取れず、いまひとつ作品の核が浮かび上がってこなかったように思う。薄ら笑いを浮かべた女性が「すいませーん」と言いながら椅子を片付けて少しだけ掃除をするシーンは、演じる/それを観る、というあの場のリアルにわずかな歪みを生じさせたように感じられ、印象に残った。

ダンス部門 米田琴音・滝上さら作品「SEIZE」

 会場の広さと形、観客との近さ、そして音響や照明のシステムに対して、作品が噛み合っていなかったように感じた。もう少し調整を加えてもよかったのでは。ダンスを構成する要素は決して音楽とダンサーの身体だけではないので、もし今後も万全な劇場舞台だけでなく様々な場所で踊っていきたいのであれば、場所に応じた作品と身体の調律を意識していく必要があるだろう。

ダンス部門 伊藤百花・二階美羽・向井夏鈴作品「Why You Tanz?」

 次々と魅力ある振り付けが現れ、純粋に動きの面白さを楽しめた。音がよく響く会場だったので、ボディパーカッション的な部分もマッチしていて良かった。ただ、ひとつひとつの動きに対して己を捧げるような踊り方と、<踊っている自分>を観客に見せることを意識した踊り方とで、ダンサーによって差があるように見えたのが気になった。それら2つの意識は、それぞれダンスのもつ「祭事・神事」の側面と「ショー」の側面に対応しており、原始・現代に関わらず、ひとつの踊りの中での両立も行き来も可能だと思う。そのような「踊りに向き合う意識」の部分まで振り付けることができたなら、踊りの根源を探る試みがさらに深まるのではないだろうか。


【講評者】

白井愛咲

1987年生まれ。東京在住。 ソロダンサーとして作品を発表するほか、 ダンスユニット「アグネス吉井」としても活動。 立教大学映像身体学科卒業。 フリーランスのWebデザイナー・コーダー。