慣習についていくつか。

 各作品のタイトルとステートメント(あるいはコメント)について。まずは、それが読まれることが、上演その他にとって有効に働くと確信したテキストだけを発表する。そのテキスト単体でムードを出したり何か大事なことを言おうとする気分は余計。 

 次に舞台上で。立てられる足音を、聴いてよかった、となることはほぼない。演技的に強調する呼吸音も同様。 

 豊田ゆり佳『ばななをくり抜いたら種』(ダンス部門)。よく振り付けられている。冒頭の静かなソロ、座りこんだ女性の、立てた片膝の下を通った手が何かをねじる・みがく(あるいは果物をしぼる)ような動作。クイックな動きになっていったために、その見えない対象の存在感は薄まるが、立ち上がる際に「それ」をさりげなく置くことでまたよみがえる。せっかく在らしめた見えない「それ」をその後はまったく無視するとか、照らすだけの明かりとか、J-POP(日食なつこ「大停電」)の音量の絶妙な小ささとかが、白々しさを演出していて、教室的な振り付けや構成を相対化できていたように思う。相対化にとどまらず、こうした刷り込まれている構成センスを批評し、それがどこから来ているもので、どれくらいの人々がそれを身につけているのか、というところまで踏み込んでいく創作の方向もあるだろう。

 浅野井瑞季・杉田亮『賽と河原』(演劇部門)。空間は占有できず共有されている、という演劇の特質でありつつ日常でも発見できる奇妙さを、登場人物の向きを恣意的に組み替えることによって提示している。それにより、物語上は起こっている人物同士の身体の接触がすれ違うなど、見た目には特殊な瞬間がある。「視線」というモチーフを設定し、舞台を挟む二方向の客席や、背もたれがなく指向性の少ないスツールの使用などで対応する。様式は、俳優を両袖に並べた椅子で待機させ(必要に応じてアクティングエリア中央に持ち寄らせ)、演技はマイムというもの。密度の低いドラマも含めて、マレビトの会の後発作家群を彷彿とさせる。七五調のモノローグが挿入される趣向はご愛嬌だが、後半に唐突に起こる、それ以前の場面のセリフを引用した抽象的な会話はユニーク。文脈の異なる「ミニブタ」と「人間として(見る)」が付き合わされ、観客のうちにフラッシュバックし、すぐ突き飛ばされる。コピー&ペーストによるテキスト編集が技術的に容易となったために、(リフレインなど)ある種のセリフの過剰さをしかし偏執性なしに劇作へ取り込むということが一般に真似しやすくなっているわけだが、当作にみられる減算するアプローチを(コント的でなく)洗練させる道もある。

 杉本葵『Heartach~20~』(ダンス部門)。本作のように自己表現(に見えるもの)の旗色は、どのジャンルであれ著しく悪い。近年のソーシャルメディアの発達により、ある社会階層にいる者は発信をしやすくなったというのは確かだろう。仮に何らかの当事者性に基づいていたとしても、自己表現とみなせるものそれぞれの希少さは、類するものが増加するにつれ下がっていく。それでもなお自己表現に何らかの意義を見出し、また見出させるためには、それなりの戦略を要する(いちいちの当事者性は表現するまでもなく希少なのだし)。加えて言えば、本作ではダンサーの素養にあっていない振りが散見された。動作としてそれができるからといってやったほうがいいとは当然限らない。

 加藤幹人『きぃちとすうちゃん』(演劇部門)。人形との会話や幽霊の登場人物、震災、方言など、取り上げられているトピックは多く、どれかについての思考が徹底されているという印象はない。かすかなことや微妙なことがやりたいなら、それこそ既存のフォーマットや慣習に乗っかるのかどうかを明晰に選ぶべきだろう(様式の点では浅野井・杉田作品と同じことが言える)。

 どの上演にも当てはまるが、これまで起きたことのないことを起こすべく、動く、または動かす、そういう気概があってもいいのではないかと思った。

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【講評者】

羽鳥嘉郎

1989年ブリュッセル生まれ。演出家、「けのび」代表。京都国際舞台芸術祭 KYOTO EXPERIMENT フリンジ企画「使えるプログラム」ディレクター(2013-2014年度)、TPAM – 国際舞台芸術ミーティング in 横浜 アシスタント・ディレクター(2014-2017年度)。「サハ」として「演劇エリートスクール」を運営(2018年度-)。現在、立教大学現代心理学部映像身体学科兼任講師。編著『集まると使える—80年代 運動の中の演劇と演劇の中の運動』(ころから、2018)。‬