映身展2019講評

 私はダンスの作品を鑑賞したことがほとんど無いので専門的な知識はありません。従って、指導的な立場から理由を述べながら批評を加える、講評がうまくできるとは思っていません。あくまでも感想として思ったことを率直に述べさせていただきます。運営の方にもその旨はお伝えしたうえでこの依頼を引き受けることにしました。

【ダンス部門】岩城かのこ出展作品『囲(i)』について

 4人の白い衣装のダンサーが踊っているところに映像がプロジェクションマッピングされるという作品。最初の映像はタイトルにあるように「囲い」、窓枠のようなものが壁に写し出されていた。シンプルな黒い枠であるが三面の壁に投影されるため空間の奥行きが拡張されたように錯覚した。そしてその奇妙な奥行きの空間でダンスが始まるのだが、一人のダンサーの手には LED によって光る立方体(ルームライトのような)があった。ダンスの進行に伴いこのライトは様々なダンサーの手へと渡っていくのだが、この存在が何かのモチーフであるのかは分からない。ただ光る立方体があった。またダンスと共に映像も変化していくしっかりとしていた枠線がぐにゃぐにゃと歪みはじめる。そして暗転を挟み、曲調もかわり映像も砂嵐のようになる。ダンスもカクカクとした機械的な動きへと変わる。そんな目まぐるしい変化の中でも光る立方体は依然として立方体であり、光っていた。

 この作品の出展者の岩城さんの作品紹介のコメントを読む限り「意味のあること/ないこと」について考えることへの葛藤、逃避、そしてその循環について表現しているようであるが、ダンスにも映像にもそれらを想起する寄る辺は私には感じられなかった。光る立方体が、はっきりと見えすぎてそれらを想起することへの妨げになっていたのかもしれないと思っ た。

【ダンス部門】杉本葵出展作品『Heartach~20~』について

 3人のダンサーによって上演される作品。Heartach とは心(臓)の痛み、苦悩のことであるが登場するダンサーにはそれぞれ設定があり、一人目はインターン中の彼氏となかなか会えない女子大生、二人目は同性愛者の女子大生、三人目は風俗で働いている女子大生ということになっている。それらの設定は録音された三人の会話が流れることで徐々に分かっていく。三人の会話→会話の中心だった人物のソロダンス→三人の会話、、、、という流れがある。三人の会話が流れているときにダンサーたちは台詞に合わせ口を動かし(口パク)その台詞を発話しているような表情をする。その口パクは上手ではなく、ズレが生じていて身体と声(音声)の乖離を強調しているように見え奇妙だった。しかしダンサーたちは口の動きと音声がぴったりと合うことを目標としているようだった。ならば、「なぜ声を発しないのか」という別の奇妙さが生まれてしまった。

 三人の女子大生がそれぞれに抱える苦悩を表現するようなダンスになっていたのかもしれないが、そこには雄弁さはなく、設定されている個々の問題についての意識はおざなりになってしまっていたように思う。これらのことは「こんなにも可哀想な私をみてください」というだけで済まされてはいけない問題である。(彼氏と会えない問題についてはそれでいいのかもしれないが)  杉本さんの作品紹介文を一部抜粋すると「二十歳の私達にしか分からない第二のネバーランド。20代の heartach という幸せを作品から感じてください。」とあるが、ダンスの内容はとても悲劇的なもので幸せを感じて欲しいとはどういう意味だろうか。20代でこのように悩めることは幸せであると信じているように思う。20代に特化してそのように信じられるのは何故なのか。

 踊りとしては全然ダンサーの身体を見ることができなかった。目の前には身体しかないはずなのに現前には感情を表象するなにかを羽織った身体しかなくダンサーそのものの身体を見ることができなかった。拙い物語に付き合わされる身体と付き合いきれていない身 体のどちらも楽しみたいと思った。

【演劇部門】浅野井瑞季・杉田亮出展作品『賽と河原』について

 客席を対面にし、主なアクティングエリアは舞台の中央にある(時々客席の後ろを回りながら台詞を言うこともあるが)。俳優の演技は二つの方向から見られるという構造になっていることもありお互いに背を向けながらも洗面所にいることになっていたり、物の受け渡しが行われているはずなのにものを差し出す方向がおかしかったりということが「普通に」行われていた。最初はその距離感や角度のバグも把握できたが、だんだんと複雑になっていた。対面式の舞台ならではの見え方の問題なのかもしれない。もう一つの複雑な点は、客席の後ろに回ってもなお発話がなされることである。そうすることで台詞がサラウンドに聞こえるが、それは目の前にある距離感を実感させるために行われているのだろうか。

 この作品ではサイコロを振った音がきっかけとなってシーンが展開されていく。この音はシーンの区切りをはっきりとさせるための音なのか、それとも何か別の変化が起こっている音なのかは最後まで分からなかった。賽子という六つの面から成り立つ立方体の存在が不可解であった。   小道具をほとんど使わず舞台上に在るのは背もたれのない丸椅子のみで、このような形式の上演は我々も行ってきている。その中で演技については全く違う方法を選択していることに引っかかった。発話の仕方や表情の作り方など写実的でリアルよりも少し濃くしている。しかし俳優のマイムはきっちりとしたものではなくリアルではない。そのことはすこ しだけ新しさを感じた。

【演劇部門】加藤幹人出展作品『きぃちとすうちゃん』について

 俳優は二人で、舞台上にはランタンに見立てたランプとラジオが置いてある。この作品は一人の俳優が手に持ったぬいぐるみと対話するシーンから始まる。冒頭のシーンの台詞は関西地方(広島?)の方言で書かれている。ぬいぐるみが話している時ときぃちが話しているときで少し話し方を変えているが、やはり一人でいることには変わりがないのでその境目がどこなのかがだんだんとふわふわしてくる。きぃちは紛れもなく自分と話しているのである。ぬいぐるみが実際に存在しているから、こうして対話しているように見えているだけなのだと思う。はじめて小道具があってよかったと思った。ぬいぐるみと対話しているからと言って過剰にそれを動かしたりするわけではない。そこが魅力的であり、重要なことだ。

 ぬいぐるみときぃちの会話は台風が来るから避難しなければならないという旨のものだった。昨年、台風七号の接近に伴い西日本に絶大な豪雨被害をもたらしたことは記憶に新しい。そして、きぃちとすうちゃんもまた台風の脅威に晒されていた。

 話が展開していくうちにすうちゃんはもう亡くなった人であることが分かる。そして今度は震災の後の話へとなっていく。時間の経過ははっきりとは分からないが、最初のシーンからは大きく様子は変わっている。

 最も心が躍ったのは最後のシーンでご飯を作っている俳優のマイムが絶妙に可笑しかったことだ。鉄板で焼きそばを焼くようにも中華鍋を振っているようにも見えるが、何といっても、自宅で「ごはんを作ろう」と言ってつくるような動きではないのだ。それが可笑しくて可笑しくて。それでも何かを作っていることさえわかれば、もうそれはそれで十分に足りていると思う。


【講評者】

関田育子

1995年生まれ。

立教大学現代心理学部映像身体学科卒。

有用性の中で規定された知覚や物事に対する遠近法を一度解体し、全てのものを等価に把握するような新たな視点を構築する演劇作品の創作を試みている。この試みを『広角レンズの演劇』と名付けている。

2016年に同学科教授・松田正隆氏が代表をつとめる、マレビトの会のプロジェクト・メンバーとなる。フェスティバル/トーキョー16主催プログラム『福島を上演する』に演出部として参加する。

フェスティバル/トーキョー17「実験と対話の劇場」では、演劇作品『驟雨』(作・演出)をあうるすぽっとにて上演した。

その他の作品に『寄居虫の丘』『人々の短編の集』『夜の犬』(いずれも18年)『柊魚』(19年)など。