新宿と新大久保のあいだの、ちょうど周囲を黄金街、バリ島、日清、神社に囲まれた歓楽街の片隅に、その画廊はある。看板に掲げられた「眼科」という名は、来訪者の目を癒すということなのか。ガラス扉を開けて画廊に一歩踏み入れると、周囲の雑多な光景を一気に清々しく振り払うかのような、奥行きのある真っ白な空間が広がる。街のざわめきとの落差を肌で感じながら、展示された作品を一つひとつ丹念に見てゆく。時間がどれくらい経ったかは分からない、最後の作品を見終えて画廊の奥に突き当たったと思ったら、ふいに空間が右に折れ曲がった。どうやら続きがあるらしい。視野を遮る半透明の重たいプラスチックのカーテンを脇にずらすと、行き止まり、ではなく横向きに広がる、嘘みたいにふつうのマンションの廊下の壁だ。住民の私的な空間に突如侵入してしまった。右手には上階への階段があり、生活の気配が滲みでている。軽い戸惑いを覚えながら、左にふと目をやると廊下奥に部屋があり、扉が開いている。恐るおそる近づくと、用途の分からない真暗で奇妙な隙間の向こう側にあるのは白い空間で、どうやら画廊の続きらしい。ほっと一息つき、カフカにこんな作品があったなと思いながら、そういえば地下もあるはずだと先ほどの階段まで戻ると、地下へは通じていない。ただの床だ。地下がある気配すらない。階段の右脇にある扉を開けると、外の通りに出た。そして都市の雑踏が一気に広がる。仕方ないので、ふたたびギャラリーのなかへ。今度は、どこからか水の流れる不穏な音が聞こえてくる。目が廻りそうだ。そういえば画廊のエンブレムも、ぐるぐる廻る多重の円環だった。化かされているのだろうか。ふたたび外へ。二回、三回……。何度、堂々巡りを繰り返せばいいのか。すると通り沿いに、柵のついた地下への階段がある。秘密めいたその柵をそっと開けて左に急旋回する階段を下り、扉を開けると、地下壕みたいに天井が低く、打放しコンクリートの薄暗い灰色の空間が広がっており、いきなり無数の足音が乱反射して押し寄せてくる。どこから音が来るのかも、何人いるのかも分からない。というより薄闇のなかには誰もいない。だが、その足音のせいだろうか、ダンスか、演劇か、映像かは定かでないが、空間をゆがめる地下演目がすでに開幕し、光と闇の設計が空気中に漂いはじめているようだ。

 どうやら随分前から、すべてが周到に準備されていたらしい。しかし、誰が、いつから、どこまで。「私」たちはいつそこに足を踏み入れたのか。ちゃんと出られるのだろうか。垂直方向にも水平方向にも分断された三つの空間、ひとつの画廊。階段や廊下は、空間同士をつなぐためではなく、空間を分離するためにあるかのように。内/外、地上/地下、白/灰色、喧噪/静謐、統一/混淆――そのすべてがねじれ、絡み合う。浴槽を漂流するBUoYから、めまいのする新宿眼科画廊へ。さあ、映身展2019へ。

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 画廊に入ってすぐ右手に展示された中川友香「ゆらゆら」は、画廊とその界隈の空間を折り込んだ作品だった。閉ざされた真っ白なボックスの一側面を、横長の長方形型にくり抜き、その内部=内面を覗き込むように構成された、ある意味できわめて私的な作品は、ギャラリーの白い空間を外から眺める構図と共振しており、扉で遮られて音の小さくなった街の喧噪と混ざりあうかのように、ざわつく音がループ再生される(再生速度を速めることで内容不明となった話し笑う声、水の流れる音、様々な物音など)。展示空間とのこうした共振があることによって、箱の内側に閉じこもっているかのようでいながら、じつは外へと耳をじっと澄まし、その感触を敏感に察知する開かれたものとして、作品が立ち上がってくる。ボックス内部の視覚的゠触覚的素材のなかでは、布や写真を固定するためにもちいられた、安全/ピンの両義性がひときわ際立っていた。

 廊下奥の部屋の入口に展示された原枝里佳「糸」も、同様に私的な作品だと言える。したがって、分離されたふたつの展示空間がいずれも、「私性」の強い作品によってはじまることになる。ただし、両者の表現形式は大きく異なる。というのも、原の作品は、箱の内側に内面を封入するのではなく、赤白二本の個人的な記憶=糸を、天井から地面に向けてゆったりと垂らしては天井に戻す動きを幾度か繰り返すことで生まれる、たっぷりと隙間をもった造形によって、個人史を「外」に向けて開かれた形態として見せるからだ。同時に、糸の垂れる下限の高さが、おおよそ作者の身長に合わせられることで、作者の姿が秘かに暗示されており、さらには糸の軌跡が、アイスリンク上での滑走の動きをなぞるようでもある。内面から外へ(中川)、外から内面へ(原)――この二作品が、ふたつの展示空間の冒頭に設置されているということが、入口/出口、内/外をめぐる二重の寓意となるだろう。

 逆に、明確な「社会性」を帯びた作品が舩木錬「集団」だ。白地の半袖Tシャツを縦3枚×横3枚、計9枚重ね合わせて一枚の大きなキャンバスをつくり(縦横の比率は4:3程度)、その中心やや下寄りに、黒い円をプリントしたものである。これを日章旗とのみ解釈するのは、いかにも日本的バイアスというものだろう(縦横比や、円の位置でいうならバングラディッシュ国旗のほうが近い)。9枚で1つのものとなるキャンバスが解体されるなら、それぞれのTシャツの図柄は、もはや円形(によって象徴されるらしい集団)のかたちを一切とどめぬものになる。この作品はひとまずこの離散性を強く内包した集団性の寓意だろう。だが、離散したとしても、この9枚が焼かれたりすることなく、ふたたび寄り集められるなら、また円形が再現される。円(輪=和)とは統合ばかりでなく、その裏面にある排除の象徴である。集合/離散、統合/排除は、どこに重きを置くかによってまったく見え方が変わる。しかし、この「9」は、引きちぎられた、どこかの国の憲法を示す象徴的な数字でもあるのだろうか。

 ……と関連づけてしまいたくなるのが、揺れる「鳩」=「平和の象徴」をモチーフに取り入れた佐久間未歩「–fps」である。真っ白な壁にかけられたこじんまりとした振り子時計は、その振り子の先端についた鳩が揺れつづけているにもかかわらず、時はもう進んでいない。まるで平和が揺らいでいる状態で時が止まり、永遠にそこに留まりつづける羽目になったかのように。しかもその鳩が、カメラ・オブスクラのなかで上下反転され、薄暗い像として亡霊のように映し出される。目の前にある現実と、カメラ・オブスクラの像の亡霊感との落差。生者の国と死者の国。このカメラ・オブスクラの映像のうえに、その場でデジタルカメラによって取り込まれた来場者の姿が重ねられ、映像が三層化される(現実/カメラ・オブスクラ/デジタルカメラ)。作品名の「fps」は、「動画の一秒あたりのコマ数(frames per second)」ばかりでなく、「一人称視点の射撃ゲーム(first-person shooter)」を指す。情報化時代における戦争の不安の隠喩としては、あまりに出来すぎた題名かもしれない。加えて驚いたのは、会期中にこの作品が撤去され、その痕跡じたいが跡形もなく消え去っていたことだ。このことも作品の亡霊性の一部なのだとしたら……

 廊下奥の部屋には、言葉/形象のかかわりを主題とする二作品が展示されていた。石塚真帆「見えない音を見る。」は、本=アルバム型の作品である。最初の頁に擬音語・擬態語をあらわす「文字」を、それをめくった次の頁にその擬音語・擬態語を体現する「写真」を、交互に示してゆく。この作品を成立させている鍵は、文字/写真を決して同時に示さないという「時間差」にある。「まず」文字のみ、「次に」写真のみというこの順序によって、当初は文字から分離していた写真表面へと、文字の喚起する音がゆっくり、じんわり浸透してゆき、文字=音/写真=形象の境界が溶けてゆくプロセスが、追体験されるのである。すると、その写真は、その音を発するものでしかありえないように思えてくる。様々なメディアにおいて、文字はあまりにも自然に映像の解釈を誘導しているが、その効果が、作品上で再現されるのだ。この誘導への批評的なまなざしが、作品受容の上での鍵になるだろう。観客の参加を促す同作品は、文字=音が付着した写真から、別の音、別の言葉を引き出すよう求める。つまり、言葉=キャプションから、映像をふたたび引き離すことを求めるのである。

 一方、岩上涼花「文字を化かす3」は、言葉/映像ではなく、文字/意味をいったん分離する。文字(主に漢字)の「意味」にいったん「お休み」してもらったうえで、そのかたちと大きさを自在に変形し、文字そのものが有する造形性を何倍にも膨らませてみせる。作者の言葉にあるように、まさに「文字のバカンス」にふさわしい。というのも、「バカンス」には空虚という意味もあり、意味をひとまず「空虚」にしたうえで、文字のかたちに、思いっきり羽根を伸ばしてもらうことだからだ。漢字の成立にかんする歴史的な背景知識――とりわけ篆書体とその可塑的なフォルム――を踏まえながら、バウハウスのような幾何学的デザイン性も持ち合わせたその「字」=「形象」は、あくまで軽やかである。それぞれの漢字に割り振られた淡い色彩の取り合わせも、ニュアンスに合わせて的確に選択されていた。題材を、中島敦『山月記』から採ったことで、小説中の獣の躍動感が漢字に憑依しており、そのことによって逆に、『山月記』という作品じたいを、見事に躍らせることにもなっていた――たんに喜びだけでなく、悲しみ、痛み、絶望、そして言葉にならない「慟哭」も。文字にしかできないダンスがあるのだと再確認させる作品だった。

 さて、作品を見て回る「私」たちは、階下の地下室にその足音を響かせつづけることで、姿も見せずに、地下演目の囲いのなかに(不法に)参加/侵入する不穏な隣人でもあった。地上の「私」たちのとまどいがちな足さばき、ふいの停止、直線的な歩み、ターン、すり足はすべて、地上の作品と、画廊の空間に促された即興のステップである。一種のリズムがあったとするなら、空間と作品が鑑賞者を惹きつける磁力の強弱によるものだ。そのなかで、廊下奥の部屋で寡黙に「365日」をライヴで描きつづけていたのが、長濱光玲だ。長濱の立てる足音は、地下に反響するもののなかでも、おそらくごく微弱なものだっただろう。時に思い悩みながら、時に敏捷に、動いていたのは、絵に向かう手と目、それに頭脳だったからだ。絵画、それをライヴで描く作者の身体の現前、そして、その指先を撮影する板状端末のスクリーン――このスクリーンが、来場者の側に向けられていることで、現実/映像が即座に二重化し、絵と、描く手がその場で映像化される。そこまで含めて作品なのである。評者が見ることのできたのは、それじたい劇的に変化していった、肖像画制作プロセスのほんの一端だけだが、廊下奥の部屋では、絵を描く特異な身体とともに、独自の時空間が立ち上がっていた。

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 インスタレーションの空間は、すべてが作品として見られ、聞かれ、読まれる、ある意味では過酷な場である。一切のものが、空間を、知覚を、身体の動きを、関係性を変容させるものとして認知され、その相のもとで価値評価される。この報告もまた、展覧会をじっくり見聞きし、解釈した結果だが、それが作者や、会場の選定者や、各作品の配置の決定者の意図と、どの程度合致するかは分からない。この報告の解釈そのものの是非はいったん措くとして――何たる無責任!――、しかし、一人ひとりの鑑賞者によって、作品がある仕方で「読まれてしまう」ということは、避けがたい事実である。では、作品はどのようにして、こうした意味づけから身を引き剝がすのだろうか。その引き剝がしを遂行するのは、作品そのものでしかありえない。読まれることに無防備でありたくなければ、ある読まれ方(だけ)は拒絶するという力を、造形そのものが帯びることが必要なのだ。それを、作品の厳しさと呼んでおこう。その際、作者の「意図」――「じつは私はこうしたかった」という表明――に頼ることはできない。意図そのものは、あくまで「かたち」として表現されなければ、効果がないからだ。作品は、造形においてのみ厳しくなることができる。

 あくまで一般論として、インスタレーション、もっと言うなら現代美術全般に付きまとう危険は、コンセプチュアルになることで、鑑賞者の解釈力に頼ってしまい、造形的な作り込みが弱くなってしまうことである。創作者自身が鑑賞者でもあるため、鑑賞者=自分の頭の理解力に頼ってしまうのだ。だからこそ、他人の眼で、距離をおいて作品を見ることが必要になる。たとえて言うなら、自分の声を自分で聞くあの気持ち悪さを何とか乗り越えつつ、自分の声を客観的に聞くことができるようになる、という感覚に近い。コンセプトは綿密に練り上げるべきだが、同時に、あくまで具体的に見え、聞こえ、触れられるものの素材、かたち、テクスチャ、構図に固執すること。それらが誘発する身体の動きと、それらが呼び起こす抵抗感、異和感、居心地の悪さとに自覚的にこだわりぬくことが必要である(インスタレーション作品は、それが置かれる空間を変貌させることで、来訪者の身体の動きを規定し、時間をゆがめる)。「なぜ」を幾重にも考え抜き、なぜ「それ」なのかと問いつづけること。あえて言うと、鑑賞者の感じ方の相対性に委ねてはならない。

 この報告は、大きく言って「私性」、「社会/政治性」、「言語/形象」、「身体性」という主題によるものだが、展覧会全体を振り返ると、抵抗感を積極的に喚起し、磨き上げる作品は少なかった(ただし、そうすればいい作品ができるという意味ではない)。作品という物質は、エイリアンであり、異物であり、人ならぬものである。人間の身体も、じつは自分にとってすらエイリアンである。ゆえに我々は宇宙人である。宇宙人がカメラ・オブスクラを覗いている姿を想像したら、それだけでわくわく、ぞくぞくするではないか。作品の力によって、人間を宇宙人に変えてしまおう。あるいは見慣れたものを、獣に変えるのでもいい。新宿と新大久保のあいだを、冥王星に変えよう。地球も異星である。荒廃しているのか、さもなければ一体何なのか。とにかく、それほどの造形、知覚、時空間の変容をもたらすこと。誰が、いつから、どこまで? もとに戻れるだろうか。依頼は1200字だが、もう6000字近い。締切も近い。縮められるだろうか。いや、縮めなくていい(と思いたい)。だが、こんな長い報告、誰が読むのだろうか。

【講評者】

堀千晶(ほりちあき)

1981年生まれ。仏文学者。