Something

――「共-生」(認識)と「もの」の誕生――

 創作と同様、講評もまた表現であり、しかもある特異な身体の「認識」(connaissance)に依拠したひとつの身体表現であることを忘れてはならない。とはいえ、この「認識」は作品の実在を前提にしてその真理(真意)を認識することでも、さらにはそうした認識に基づいてその作品自体を権威の階梯に位置づけることでもない。いわば「認識」以前に「認識」されるべき作品は存在しない。「認識」せんとする身体こそが作品という表現の発露となるのであり、身体の「認識」がその作品を、その作品の表現を実現するのである。この意味で、奇しくもメルロ=ポンティが表現しているように、「認識」とは「共-生」(co-naissance)、即ち「共に生まれること」であり、つまりは作品(の表現)とそのようにのみ作品を「認識」することができる身体との交差的な生成なのである。それと同時に、作品の表現とある身体による解釈とが交差的に生成するという意味でも「認識」とは「共-生」であるといえるだろう。従って、身体学――少なくともメルロ=ポンティの身体学――においては、身体が「認識」あるいは知覚する以前に、作品それ自体(=物自体)など存在しないといえるが、それは表現以前に――つまりは、表現することなくして――作品は存在しないということである。物ないし作品とは、身体の知覚ないし「認識」によって捉えられる=生成する「もの」(quelque chose)であり、このようなある身体が知覚することのできる「もの」とは、ある意味で「もの」がそのように身体に知覚させる「もの」の(=という)表現なのである。であればこそ、メルロ=ポンティによって「知覚はある種の表現である」といわれる所以も明らかであろう。無論、物が先在し、そのうえで物の表現が実現するわけではない。知覚は先在するものの写像や模写ではない。「もの」とは表現それ自体のことであり、表現でない「もの」など存在しようがないのである。このように「もの」とは「共-生」という―― 一方では身体が「認識」できる「もの」として、他方ではある身体に対してそのように「認識」させる「もの」として――交差によって現実化する「もの」なのである。

 ところで身体に無理解な講評者たちは、時に作品それ自体が「認識」に先在すると誤認して、あたかも実在しているかのように作品自体を評価しようとしたり、あるいは評価可能であるかのように振る舞ったり、傲慢にも権威の階梯の踏破に「有効」であると称する指摘を行ったり、講評という講評者の身体表現を主観的であると見なした上でそうした表現を極度に制限することを推奨し、原因と結果を倒錯した事後的な「客観性」を盲信するあまり身体の知覚や「認識」や講評に伴う感情を――おそらくはそうした「客観的」に対置された「主観的」な――「気分」や「ムード」であると的外れな意見――それは身体「認識」から生まれた「意見」でしかないにもかかわらず――として提示したりすることだろう。だが彼らは、明らかに身体にとって「余計」であるものを見間違えている。彼らは身体の「認識」に依拠した講評をおそらくは主観的であるとみなし「余計である」と退けたいのであろうが、しかし、むしろ余計であるのは「認識」の後に一般化し固定化したはずの客観的思考という極めて常識的な思考の方であり、自らの由来に無知である懐古的錯覚によって捏造された凡庸な知であろう。ならば、まずそうした講評のすべてが疑いの篩いにかけられるのでなくてはならない。なぜなら、そうした講評はすべて身体に対して無知であり、「身体がなにを為し得るのか」についての無知蒙昧から発した妄言でしかないのであるから。そうした講評は、少なくとも身体学を習得しようと努める映像身体学科の学生にとって害ではあっても益することは皆無であるといわなければならないだろう。

 だが、創作者にしてみれば、「認識」に先立って作品が存在しないという「意見」――それは共通概念にも直観にも飛躍することのない多重交差の中での「原意見」(Ur-doxa)の一様態である――に対しては、容易に賛同することなどできないだろう。おそらくは多くの創作者が「作品は創作者が作り上げたからこそ存在するのであって、講評者の「認識」や講評以前から存在しているのだ」というのではないだろうか。だが、そうだろうか。身体表現―― 一方では身体の表現であり、他方では身体によって「認識」される「もの」=表現――を真正な(=現実的な)意味で理解するならば、「認識」に先だって作品が存在しないことが理解できるだろう。というのも、創作者が創作した作品といえども創作者の「認識」なくしては存在しないといえるからである。ところでメルロ=ポンティ身体学によれば、作品を文字通り生み出す身体の創造的表現とは、例えば「既に出来上がった観念を、別の形で結びつけ、既に見られた形式でこれを提示することによって、人々を楽しませるものを作り出す」ことではない。「こうした二次的な絵画や言葉」などの作品は「一般に文化」と呼ばれ、それは創造的表現に対して二次的表現であるといわれる。私たちが日常において表現と呼んでいるものの多くが、彼の身体学によれば実は二次的表現でしかなく、それは構想が実行に先立つような表現であり、出来上がった作品は予め準備されていた構想の複写という仕方で表現されたものだということである。それに比して、創造的表現とは「「構想」が「実行」に先立つことはできない」ような表現のことである。例えば「表現する前には、ぼんやりとした熱のようなものが存在するだけである。そこに無ではなく何かを発見する必要があることを証明するのは、作り上げられ、理解された作品だけなのである」といわれるように、創造的表現においては、「ぼんやりとした熱」とでも呼ぶしかないような何かがあるものの、それはまだ自覚されてはおらず、しかしながらそれが表現に駆り立てる原因であるともいえるが、しかし、その原因が何であったのかを理解できるのは実際に作品が実現されたまさにその時だということである。これは原因と結果の同時発生――即ち、原因が結果を導出するが、同時に結果が自らを導出する原因を発生させるということ――といえるが、ここで重要なのは、確かに創造的表現において、「ぼんやりとした熱」とは、その身体がそうすることしかできないこと=身体がそうとだけ「できる」ことの、つまりその身体の本性とでもいうべき力の表現という意味で身体表現ではあるのだが、その身体によって表現されたものが「何であるのか」を、あるいは「何を表現したかったのか」という原因を理解することができるのは、その作品が実現した時であり、つまり、その作品がある身体に対してそのことを「認識」させる時――あるいは交差的にその作品を「認識」によって反省的に捉えなおす時――であり、まさしく「もの」の表現によってなのである。従って、作品の、「もの」の表現なくしては、創作者といえども作品を「認識」することも理解することもできない。創作者においても「認識」に先だって作品は存在しないといえるのである。その意味では、たとえ創作者の「認識」であっても、作品の「認識」においては権利上――あるいは原理上――鑑賞者や講評者の「認識」と対等であるといわなければならない。なぜなら、個々の特異な身体がその作品をどのように「認識」するのかは個々の身体で異なるものの、しかし、創作者であっても講評者であってもその作品を理解するには同じく「認識」によるしかなく、個々の「認識」は作品の多様な表現として確かに異なるもののそれは等しく「認識」であることには違いないからである。これに抗して、もし鑑賞者や講評者の「認識」に先だって作品は存在しているというのであれば、それは実行に構想が先立っているということ、つまり、その作品は二次的表現であるということを図らずも自認することになるだろう。だが、その作品が創造的表現であるならば、やはり「認識」以前に、作品は存在しないということになるのである。それ故、「認識」以前に作品が存在しないということ。それは、講評以前に作品は存在しないということにおおよそ等しいということができるのである。

 従って、「共-生」という交差はなにも「ものと知覚者」あるいは「作品と鑑賞者」の間にのみ認められるわけではなく、「作品と創作者」との間にあっても同様に認めることができる。だが、創作者であれ、講評者であれ、鑑賞者であれ、われわれは何を「認識」していたのであろうか。そこで何が「共-生」していたのであろうか。そのことを示さんとするのが、「身体が何を為しているか」を明らかにするメルロ=ポンティ身体学の方法としての現象学的記述である。ところで、この現象学的記述もある身体が為し得る身体表現であることに違いはなく、創作などの他の身体表現と対等の身体表現であるとえる。そして、この現象学的記述は、自らが何を知覚し、何を「認識」していたかを、つまり何を見ていたかを再び見る(=捉え直す)という意味で、講評(review、revue)であるということができるだろう。それ故、講評とは非反省的なものについての反省であり、「見ることを学ぶこと」なのであるといえる。このように、講評とは、それ自体がすぐれて現象学的=身体学的な営みなのである。従って「認識」に先だって作品が存在していなかったように、あるいは構想に実行が先立っていなかったように、講評においても講評に先立って「認識」が存在しているわけではない。その意味で、講評とは反省的捉え直しなのではあるが、何を「認識」していたのかを産出するという意味で極めて創造的な表現なのである。であれば、講評もまた「共-生」であるということになろう。「共-生」を記述するが自らもまた「共-生」である講評、つまり自らが「共-生」であることの自覚を含む仕方で作品という表現を再び見る講評とは、自らの身体が何を為しているのかを自覚せんとする試みであり、詩や小説、戯曲や絵画、インスタレーションと同様に、ひとつの身体の表現なのである。それ故、創作者であれ、講評者であれ、鑑賞者であれ、自らが作品において何を「認識」していたのかを反省的に捉え直そうとするのであれば、それはある種の講評ということになろう。作品を創るということ、見るということは講評という反省的営為へと現実的に開かれているのであり、換言すれば講評可能性を持たない作品など存在することはできないといえるのである。

 以上、長くなったが、講評を始めるにあたり、観想のように身体的な関わりを断つことでかえって対象の純粋な直観が可能であるかのように考える客観的思考に囚われ、作品と身体との間の現実的な問題を逸するようなはめには陥りたくはなかったので、まずは講評の姿を見定めるのでなくてはならなかった。客観的思考の垢を洗い落とすならば、講評は身体表現であり、また現象学的記述でもあるという見通しをつけなくては、この講評を始めるわけにはいかなかったのである。おのれの成果の下に埋没してしまっている作品群をよみがえらせるためには、すぐには了解されないかもしれないその講評を差し出すだけでは不十分であろう。どこから見ればこのような講評が現実のものとして見えるかという観点を、身体学的な照会と解明によってはっきりとせねばならなかった。こういうわけで、われわれは、さも「講評」を行っているかのように自負する厚顔無恥な講評者でいることを回避するためにも、前置きなくして講評を始めるわけにはいかなかったのである。

 以下では、上記の身体学的見地を踏まえた上で、今回の映身展インスタレーション部門の諸作品を講評する。まず各個の作品の講評に先立って総評するならば、そのどれもが身体の根源相における表現活動を反省的に捉え、表現しようと試みたものであったといえる。だが――否。ならば――、これらのインスタレーションといわれる作品群は、果たしてインスタレーションであったのだろうか。それらは、むしろ「もの」であるといえるのではないか。そのどれもが「もの」との出会いを反省的に捉え直し、表現しようと辛苦した作品だったのではないだろうか。映身展に訪れた際、岩上涼花は雑談の中で「上演・上映作品に対して、展示作品としての「もの」を創っている」と語っていたが、すべてはこの一言に尽きる。そこには確かに作家と作品という形で実現された真実、すなわち現実が成立していたのである。「もの」を意味するラテン語のresは、現実(real、reality)の語源でもあるが、身体と「もの」との、あるいは身体の「認識」と作品という表現との「共-生」とは、その身体にとっての、翻ってその作品にとっての現実性の誕生を意味する。つまり、創作であれ講評であれ「共-生」に立ち会わんと努めるということは、必然性や偶然性、可能性などの諸様相の揺籃でもある現実性――そうであること=そうであることしかできないこと=そうであることだけできること――の誕生に立ち会うという意味で、優れて身体学に依拠した身体表現であるといえるのである。

 以下の講評は、私が映身展を訪れた際に「眼に入った」順序に従っている。

・松本誠舟「phenomena」

 ――フェノメノンと眼、あるいは諸現象の共-生

 「もの」の、つまりはsomethingの誕生を二重に描写した作品。画――ないし、図――だけを見れば「もの=何か」――Something in the way she moves――の誕生として。だが、その「もの=何か」を捉える眼というレンズの誕生も交差的に映し出している。単数形「phenomenon」でなく、複数形「phenomena」というタイトルには、単に諸現象というよりは、むしろ交流現象という意味が込められているのではないか。私という現象と「もの」という現象。おそらくは、それぞれが「假定された有機交流電燈のひとつの青い照明」なのであろう。それが愛といわれるものであれ惜別といわれるものであれ、新たな感情の発生は、対象の変様であると同時に新たな身体の変様でもある。幾枚かの彼の作品は、その変様を具に捉えている。

 画廊に入ってまず眼にしたのが、松本誠舟の「phenomena」であった。本来ならば、彼の作品はインスタレーションに数え上げられていないため、ここで講評すべきではないのかもしれない。だが、先に記したような今回の映身展インスタレーション部門の諸作品と通じるものが多々あったため、見過ごすことができなかった。今回の映身展のキーストーンともいえる作品「phenomena」は、私個人の身体にパティ・ボイドの新たな一面を教えてくれたそんな作品であった。

・原枝里佳「糸」

  ――重力と減圧

 様々な「もの=何か」との出会いと繋がりの連続を一本の、だがその一本と見えるものが糾われてもいる糸によって表した作品。「赤は人生の糸 白はスケートの糸」と記された二本の糸は、それぞれがスケート靴のブレードが刻んだシュプールのようにも見える。その赤と白の二本の糸が19歳の時に絡み、結ばれる。この交差は何を象徴しているのだろうか。「操り 操られ」とも記されていたように、出会いは単純に自らの意図だけでどうにかできるようなものではないのだろう。

 古来より現在――例えば、『史記』や『漢書』から中島みゆきの「糸」――に至るまで、糸や縄は人生や人生における出会いを象徴するのに数多く用いられてきた手法の一つである。その意味で、常套的な手法ではあるが、面白いのは糸を上昇と下降によっても表していることだろう。糸も織物も二次元ではなく三次元の存在=「もの」であるという時、ロラン・バルトならどう切り返すだろうか。非日常との出会いは常に上昇の中で生じる。それは金属で表された外部の「何か」=エイリアンによって唐突にもたらされる。糸は日常のなかで重力により下降していくが、下降の日々に減圧をもたらすのが出会いである。作品「糸」が、そんな重力と減圧を捉えていることは確かだろう。ひとつ、注文をつけるなら、減圧をもたらす出来事=結節点が一般的すぎるという点だろうか。おそらく、原枝里佳の糸を構成しているはずの出会いはもっと別にあるはずだ。それは、例えば松本誠舟の「phenomena」が捉えた彼女が見せる一瞬の動きのような。あるいは、ブレードが捉えたあの時の氷の感触のような。本作品の講評からは逸脱するが、私の身体にはなぜか島津亜矢が歌う中島みゆきの「糸」を思い起こさせる作品であったことを付け加えておく。

・石塚真帆「見えない音を見る。」

  ――共通感覚を創る

 “音は目に見えない”という常識にあらがうために、音を視覚化しようとした試みともいえる作品。見えない「もの」を見る試みは、おそらくカンディンスキーに通じるものがある。だが、見える「もの」の内奥にあるその本質――あるいは、見える「もの」の意味とでもいうべき音――を捉えることは、ミシェル・アンリがいうような「形而上学的な」認識ではない。作品「見えない音を見る」は、日常のなかで出会った様々な見える「もの」に付帯する見えない音の現実的な「認識」を捉えたものであり、共通感覚の創設の現場を一枚の写真として切り出したものである。

 赤い色を見て温かく感じたり、レモンを見て酸っぱさを覚えたり「できる」のは、確かに共通感覚の所以であるが、しかし、共通感覚――あるいは、五感の統合態――なるものは、別の感覚への感覚の翻訳を可能にする条件として感覚することに先立っているわけではない。共通感覚は可能的経験ではない。ある感覚サレルベキモノとの出会いにおいて、別なる感覚への翻訳が、つまり別なる感覚サレルベキモノの感得がなされるのであり、共通感覚は身体の「できる」ことの拡張=創設として新たに組み替えられ続けて行くのである。こうした共通感覚の創設を見事に捉えたのが、結露する烏龍茶のペットボトルに「じりじり じりじり じりじり」という音を見た一枚――「じりじり じりじり じりじり」という音を視覚化した結露する烏龍茶のペットボトル――であるだろう。だが、多くの写真=視覚化は、ひとつの身体において既に習慣化されている音であり、かつ多くの身体において一般化されている音(=誰もが見ている音)であったことが残念であった。もし次回があるならば、視覚化された一般的な音を逸脱する、作者の身体だけが見ることの「できる」音の視覚化を見てみたい。

・岩上涼花「文字を化かす3」

  ――文字の意味の可視化

 ひとつの習慣的身体が、日頃知覚している「文字」の「意味」を可視化した作品とでもいおうか。その意味で、見えない「もの」の視覚化を試みた石塚真帆の「見えない音を見る」に通じる表現であるともいえる。それはいわば、普段、身体が為していることの顕在化の試みでもあろう。文字を見る時、個々の身体は単に文字という見える「もの」だけを捉えているわけではない。メルロ=ポンティが指摘しているように、知覚は感情的価値を含むのであり、それはつまり意味の層を身に付けた文字――だけでなく言葉や語――が、見る者に思惟というものを感情的価値や実存的身振りとして与えるということなのである。

 そもそも、中国・日本における文字とは、例えば、白川静が『字統』で明らかにしたように、その字源において「化ける」ことによって成立したものである。象形文字とは、いわば現象の変形なのであり――そして音節文字である平仮名は二重の変形であり――、それは単なる代理=表象ではなく、現象の発生と同じく表現であるといえるだろう。本作「文字を化かす」は固定化した文字をその誕生へと向けて化かし返すことで文字の発生の系譜を捉えようとしているか、それとも借字を化かした平仮名とは別様の変形の試みなのだろうか。少々気がかりなのは、漢字ばかりが化かされていたことだろうか。なぜ、平仮名は化かされなかったのか。もし化かしやすい文字ばかりを選択したというなら、すでに文字に附着している一般的なイメージに従って化かしたということにもなろう。だが、それでは二次的表現であるにすぎない。そうではないというなら、そうではないことの証明のために、岩上涼花という身体だけが「できる」、例えば「平仮名を化かす」を見てみたかった。

・船木錬「集団」

  ――個人と匿名性

 特異な個人が匿名化し集団と化す様を、9枚のTシャツを重ね合わせることで表現した――と思われる――作品。真ん中に描かれた円――あるいは球体――は集合的無意識が生み出した元型だろうか。それとも日の丸だろうか。どちらにしても、円を共有する個々のTシャツは、個人が懸隔性、平均性、平坦化によって匿名の集団と化している様子を見事に描き出している。

 異なる身体に共通の球体――厳密にいえば、異なる身体が分有する球体の諸部分――。だが、単に個人の頽落した非本来的な生を否定しているわけではない。同様に、本来的生の実現を肯定しているわけでもないだろう。作品「集団」が個別のTシャツと重ね合わされたTシャツの集団とによって表しているのは、特異な個人が匿名の集団にも変様するそうした身体の両義性、特異性と一般性の曖昧さとしての身体であろう。重ね合わされたTシャツは、それ自体が1枚の巨大なTシャツにも見えた。これは誰の身体か?あるいは、誰が着るのだろう?ふと、私の頭の隅をよぎったのは、アンドレ・ザ・ジャイアント―― 一人民族大移動――であった。

・中川友香「ゆらゆら」

  ――All that you can’t leave behind

 白い布が被せられた部屋と思しき四角い小箱のなかに、中川曰く「今まで置いてきぼりにしてきたものたち」を無造作に集積した作品。「今まで置いてきぼりにしてきたものたち」を見るためには、四角い小箱に開けられた穴からのぞき込むしかない。これはフロイトの『夢判断』を意図したものなのか。だとしたら、少々悪趣味といえなくもない。

 どうしても中川自身による解説文(?)に引きずられてしまう。「誰かのためにあつらえたもの」たちを、つまりは自分の身体にそぐわないものたちを置き去りにして、他の身体にとっては「まずくてチープで」あるかもしれないが、自らの身体には「美味しいあれを食べよう」という宣言は、他者の欲望にではなく自身の欲望に従って生きて行こうという決意=決定なのかもしれない。だが、あえて置き去りにしてきたものたちを集めて見せたのはなぜだろうか。まだ未練が残っているということだろうか。「ずっと透明なままでいよう」という最後の文言には、リュウや酒鬼薔薇を連想させるような若干の危険さがゆらゆらと漂う。そんな危険さから逃れるためには、やはり「美味しいあれ」を捨て去るわけにはいかない。見るものでもあり見られるものでもある、そんな身体は決して透明であることなどできないのだ。中川友香にとっての「美味しいあれ」。それは中川友香の現実の身体の本性を教えてくれる「もの」であり、決して置いてきぼりにしていくことのできない「もの」なのである。

・長濱光玲「365日」

  ――繰り返す創造の円環

 長濱光玲が画を描いているところを見せるという作品。つまり、この作品には、制作者である長濱光玲も含まれている。上で記したように、作品とは「共-生」=交差によって現実化するものであるが、創作者と作品との「含み-含まれる」交差を長濱なりの仕方で表現しているという点で、作品「365日」は創造的表現の創造的表現であるということができるかもしれない。重要なのは、作品「365日」がライブであるということ。鑑賞者は二重の意味で作品が生まれつつある現場に立ち会うことになる。

 雑談――この雑談でさえ作品「365日」の一部であり、しかも単なる要素に還元できない表現という全体を背景にした図である――の中で、長濱は「最初にやろうとしたのとは違う」と語っていたが、まさしく長濱は構想と実行の同時発生という円環を永遠回帰のように繰り返し続けていたということになるだろう。また長濱は「映身展は開期中に――長濱自身だけでなく、他の作家においても――作家個々の身体が変わっていく」とも語っていたが、残念ながら私は作品=制作のすべてに立ち会うことができなかったため、その変様の全貌を確認することはできなかった。しかし、わずか1時間程度の滞在ではあったが、その変様過程の一斑を垣間見ることはできたのではないかと思う。長濱がどのように変化したのか今の私に確かめるすべはないが、「変わった」ことだけは確かであろう。

・佐久間美歩「‐‐fps」

  ――カメラ・オブスクラ、あるいは共鳴器としての身体

 佐久間によれば、一方で「前方にある箱がカメラ・オブスクラになっており、光の像が半透明のスクリーンに常に投影されて」いる作品であり、他方で「ボタン操作により投影されるのは、カメラによってリアルタイムで投影されデジタル処理された「映像」」となる作品とのこと。作品名のfpsとはフレームレートを表す単位。この作品は鑑賞者に、カメラ・オブスクラが投影する「光の像」が「あなたにとってどれくらいのフレームレートに見えていますか?」と問い掛けている。問題は「光の像」の知覚だ。だが、知覚された「光の像」はデジタル処理された奥行きのない静止画ではない。そもそも、知覚をフレームレートで表すことはできない。一瞬、知覚されたものであったとしても、「光の像」は時間に開かれている――過去と未来を含んでいる――からである。だから、デジタル処理された「映像」のフレームレートをいくら上げたところで、知覚された「光の像」を再現することなどそもそも不可能なのだ。それを知っているからであろうか。佐久間は「それとも、そのような考え方は通用しますか?」とも補足している。

 「光の像」と「カメラによってリアルタイムで投影されデジタル処理された「映像」」を比較する試み自体は、とても面白い。両者をひとつの作品=物体――あるいは、身体――において交差させたことも、問題提起としては極めて秀逸だ。だが、タイトルの「‐‐fps」からは、どうしても「‐‐」に数値を入れなければならないことを強いられているように思えてしまう。佐久間の問い掛けを考えれば、仕方がないことなのかもしれない。とはいえ、「そのような考え方は通用しますか?」とも補足しているのであるなら、タイトルは「‐‐fps、あるいはfps」とでもすればよかったのではないだろうか。いずれにしても、この作品が鑑賞者に多くのことを教えてくれる作品であったことは間違いない。例えば、カメラ・オブスクラの四角く暗い部屋は、それ自体が奥行きでもあるということ。つまり、カメラ・オブスクラとは、ひとつの身体なのだ。それは、「もの」の表現が「認識」として実を結ぶ身体。だが、実を結ぶためには両者の本性の一致が成し遂げられるのでなければならない。ならば、身体とは共鳴器――あるいは共映器といった方が正確だろうか――であるというべきだろう。身体に投影されるのは物の模写ではない。そこにおいてあるいは増幅され、あるいは縮減される「もの」の表現なのである。われわれはどんなカメラ・オブスクラに生成変化することができるだろうか。いつか、『真珠の耳飾りの少女』のような――否。『青いターバンの少女』のような――「認識」をしてみたいものだ。

 作品とは誰かが知覚することによってはじめて明らかになる「何か」であり、つまりはsomethingである。そして、そのsomethingとは、個々の身体の知覚によって多様に異なる「もの」なのである。

【講評者】

杉本隆久(すぎもとたかひさ)

1975年生まれ。東京都立大学大学院人文科学研究科哲学専攻博士課程単位取得満期退学。東京海洋大学、宇都宮大学、法政大学、国士舘大学、日本女子大学、立教大学兼任講師。専門は、現象学および身体哲学(哲学・倫理学)。

主な論文に「かくも歓ばしきテロル」(『月刊情況』2004年11月号、情況出版)、「根源的闘争――メルロ=ポンティとジャック・デリダにおける<暴力のエコノミー>について」(『現象学年報』19、日本現象学会編、2003)、「創造的表現と真正性の条件としての身体の本性」(『国士舘哲学』第17号、国士舘大学哲学会、2013)、「二つの交差」(『人文学報』No.504、首都大学東京人文科学研究科、2015)、「身体の意味としての「心」ーメルロ=ポンティの心身交差論」(『国士舘哲学』第22号、国士舘大学哲学会、2018)。

共著書に『ドゥルーズ/ガタリの現在』(平凡社、2008)、『メルロ=ポンティ』(シリーズ「KAWADE道の手帖」、河出書房新社、 2010)ほか。

共訳書にアルフォンソ・リンギス『異邦の身体』(河出書房新社、2005)、サイモン・クリッチリー『哲学者190人の死にかた』(河出書房新社、2018)他。